~ 楽 RAKU ~
2010年 06月 23日
* * *
ふんっ、と気合を入れて踏みだすようなコトには、
あらかじめどん底を想定して向かうと、
あら、そんなこと一つもなかったじゃん~?
ってなことに、結果、なる。
反動ってやつですかね。
別にそこ、ネラってやってるわけでもないのですが、
石橋(を叩いてわたる)系の丸諒の場合、
そういう、ヨイ拍子抜けに、よく遭遇します。
なんだぁー、ぜんっぜん大丈夫だったじゃん~、と思えたときにゃぁ、
気持ちもウソのように晴れ上がっちまったりして、楽~になって、
舞い上がる、舞い上がる。
反動ってやつですね。 (^o^;)ゞ
どん底想定のさなかが、一番どん底ってことなのか、
ということはね、ふむふむ。
ってことはですよ、どん底想定モードに入ってきたら、
夜明けは近い!
ってこと、、、ってことですよね。(←この辺りの表現が石橋系 (^o^;) )
よし、わかった。
独り納得、独り安堵。(笑)
いやいや、ちょいとばかりですけど、
どん底との付き合い方が分かったのは、ウレシイですよね~、
病いの巧妙だな。
あ、もう具合はよくなってきてますので、すみません、
日記の間隔もあいてしまってご心配をおかけしましたね、
本当に、ありがとうございました。
去年の夏は、個人主義について考えてたんですけど、
それがひとつ深まったみたいで、今年は仏教にハマってるんですよ。
といっても、もっぱら読書レベルでの話で、
実践は、とてもとても、、、この煩悩満艦飾の人間には無理です。(^o^)ゞ
ウチは曹洞宗なんですが、じゃあ果たして禅ってどういうものか、
誰が開いた考え方なのか、てかお釈迦さまってどゆ人だったのさ?
なーんにもわかってなかった、これってもったいなくね?
なんて、若モノ言葉で鼓舞された自分に出会いまして。(笑)
いや、同じ禅系の臨済宗のお坊さまにして、芥川賞作家でもおられる、
玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんの『ベラボーな生活』というご著書が、
とてつもなく面白かったので、それがキッカケになったんですけどね。
個人というものを考えはじめると、どうしても他者とのことに行き着くわけで。
思うに、去年あたりから、見かけの問題などを掘り下げているのも、
その辺りのことを、無意識ながら感じていたからかもしれません。
自己充足と他者承認の問題というかね。
さすがにこの世界には、その辺りの答えが、いっぱい、
用意されているわけですよね。
今のところ、玄侑さんと瀬戸内寂聴さんを軸に読んでますが、
お二方とも、やさしくわかりやすい語りかけで書いてくださっているので、
すーっと、水のように、古来の思想が沁みてきます。
日々のあれこれを、ほぼ自力で解決しなければならない現代人には、
仏教を知ることはお勧めできますねぇ。
あ、蛇足ながらのお断りですが、
信者になりなはれ、とかってことではないですからね。
人に強要するものではない最たるジャンルですし、丸諒も無信仰者、
学問として追っているだけなんで、これは気楽な随想として読んでください。
それがね、今、触れてみている中で、あー、と思ったことがあって。
幸せになりたい、って言うでしょ、みんな、
目標は幸せになることです、って、普通に、ごくささやかな望みとして。
これ、欲なんですってよ、仏教では。
なんと、幸福になりたいと思うほど、不幸になるんですって。
って聞くと、ツボかなんか売られそうなインチキ宗教の手口みたいだけど(笑)、
そういうことではなく、
幸福かどうかは、その人の心持ち次第で決まるものだから、だそうで。
恐れとおんなじかもしれないんですけど、幸福も、イメージでしかないんですって。
そして、「目標」とは、欲なんですって。(@o@)/
実態のないものを欲しい欲しいと思っても、つかめるわけないですよねぇ、
たしかに。
たいがい、幸せっていうのは、自分の外側の充実のことを言ってるらしく。
素敵な恋人をみつけて結婚して子どもを生んでいい家に住みたい、
これ全部かなったら、嗚呼しあわせ…
では終わらず、
亭主はハゲて自分は肥えて、子どもはバカだし家はボロだし、となったら、
増毛させなきゃエステいかなきゃ、いい塾に通わせて家はリフォームして、
ってお金がたりないっ、ひとつも実現できないっ、こんな生活イヤーっ、
もっと幸せになりたいーっ、と。
幸福欲求のデフレスパイラルってやつですか、人は簡単にこれに陥るそうで、
しかも、この本当の恐ろしさは、キリがないこと。
「目標」って、達成したら上方修正しちゃうものだから。
もっともっと、上へ上へ、、、
いつまでたっても欲求不満ってことですよね、これはかなり、不幸でしょう。
追いかけても追いかけても、絶対につかめないまぼろし、蜃気楼、
それが、「求ム:幸福」というものの正体なのだそうです。
もしかしたら、拒食症とかもこの辺に関係してるかもしれませんけどね。
かといって、なんだか昨今流行り加減の、
身の程を知れ、身の丈でつましく生きろ、ってな、
みみっちいことを言ってるわけでもないんですね。
仏教的に目指すべき理想形は、楽、なんですって。
ハゲだわデブだわバカだわボロだわ(すごい言い様だなぁ (^o^;) )、
いや、ほんっとそうよね~、あっはっはっは、
って笑ってられるのが、いちばん美しく、いちばん素敵な在り様なのだそうです。
だから、仏教世界の最上階は、極楽。
天国じゃないんですよね、楽の極み、なんです。
楽っていうのは、自分の内面が充実している状態のことで、
外側の豊かさ乏しさは関係ない。
内面的な幸福がほしいっていうのは、実は、楽になりたいってことなんですって。
お風呂につかって、それこそ「はぁ~あ、極楽、極楽」とか言う、ね、
あの間は、満たされきってるでしょう?
ああいうシンプルな状態、気持ちいい~、ってだけの状態が、純粋楽。(笑)
どこにでも転がってますよねぇ、その気になれば。。。
やっぱり、快感を追求することって、悪いことじゃないんですね、
なんかすっかり自己チューなイメージになっちゃってますけど。
もちろん、いわゆる慈悲ってやつですか、他者を思いやる気持ちが、
大前提なわけですけどね、仏教なんで、さすがに。
でも、単純なことですよねぇ、考えてみれば、
他人にやさしく、自分にもやさしく、ってだけなんだもんな。
ああーそうかぁ……人にやさしく自分に厳しく、は、
儒教的な考え方なんだな、そして儒教は、管理する者のための思想なんだ、
わかってきた、丸諒は好かん、これは。(笑)
そうして、このところの丸諒の心持ち、
目標を設定してそこに向かって努力する、って、どうも違う、何かおかしい……
と思うようになった、あれは仏教的には叶ったことだったのだ。
ああ~、よかった、間違いじゃなかった、すっごい安心したー。(笑)
だって子どもの頃から、
まったくもうあんたは、楽な方へ楽な方へいって!
って怒られてきたから、楽することに罪悪感を持ってきてたんでねぇ。
それに、目標設定って、イコール向上心だと思ってきたから、
目標を持たない生き方をするのって、じゃ、邪道?という不安もあったし。
たしかに、あんまり若い内から楽な方ばかりにいくのはいけないね。
というか、もったいないよね。
エネルギーが充満しているときは、いっぱい叩かれた方がいいと思う。
鉄は熱いうちに叩け、ってね。
でも、よりよき人間になりたい、っていう本当の向上心には、
欲は絡まないんだな。
修行に近いあり方というか。
修行ってごく個人的なものだから、
見栄やプライドだけで続けられるものじゃないでしょう、
むしろそういうものを捨てていくことなわけで、欲とは違う質のものですよね。
だから、純粋向上心は、生涯持ち続けた方がいい。
たぶんその方が人生楽しくなると思うし。
でも、ある程度になったら、楽も、追った方がいい。
たぶんその方が、自分のため、人のため、人類のためになると思う。(笑)
苦しいことは、日々やってくるわけだけど、
苦しみを楽しむ、というような感じがつかめれば、それは楽にいれてる、
ってことかなぁと。
不幸のどん底にいても、楽にいれてる人って、素敵だ。
逆境に負けない、って、頑張ることじゃないんですね、
無邪気でいることなんですね。
やってきた鬼に、鬼となって対抗しても戦争にしかならないけど、
子どものように、どこまでも無邪気でいたら、鬼は力を失うですよね、きっと。
それは、相手を楽にするってことかもしれない。
・・・このあいだ、大変な状況で失意にある人に、
仁王立ちして迎え撃ってくれ、と言ってしまったのだけど、ごめんなさい!
間違いました。
楽にしてください。
お風呂に入ってでも、お酒のんででも、美味しいもの食べてでも、
なんでもいいから、気持ちよくいてください。
リラックスするのって、罪じゃない。
こんな大変なさなかに、自分一人安楽を求めるなんて人でなし、
そんな風に思うこと、全然ない。
楽な人のそばにいると、自分も楽になりますよね、
だから、、、自分の楽は、人を楽にさせてあげられる、ってことだから。
いっしょに苦しむことって、もしかしたら、自己満足の範疇を越えられないのかも、
・・・かも、しれない。
とても、危なげで語弊の多い言葉なんだけど、、、そんな気がしてきました。
自分が楽にいれば、
その方が遥かに大きなものが生み出されるんじゃないですかね。。。
ああ、、、もしかしたら、これが慈悲ってことなのかなぁ。
それやったら非常識でしょ、とか、そんな自分レベルのところではなく、
もっと大きな、大きすぎて見えないような、愛情の持ち方、、、なのかなぁ。
幸福は、なるものではなくて、いるものらしいですよ。
幸せになる、じゃなくて、幸せにいる。
幸せにしている、ってことは、楽でいるってことなんです。
と。
なれば・・・楽、追求しましょうよ!
少しでも楽な方に行きましょうヨ!
解禁ですよ、楽。(笑)
そう聞けば、楽になってきたでしょお?
お釈迦様は、この世の中から苦しみをとりのぞきたかったわけで、
みんなで楽に生きようなー、って、それだけを目指してたわけで。
単純な方へ、単純な方へ。
ね。。。
なんと大きな光でしょう。
やはり、侮れませんね、仏教。
だってなんか、生きる力が湧いてきた。
ってアンタも、ほんっと単純だよ。(笑)
でも、ってことは、いいトコいけてるんですよ。
ネっ-☆
* * *
ふんっ、と気合を入れて踏みだすようなコトには、
あらかじめどん底を想定して向かうと、
あら、そんなこと一つもなかったじゃん~?
ってなことに、結果、なる。
反動ってやつですかね。
別にそこ、ネラってやってるわけでもないのですが、
石橋(を叩いてわたる)系の丸諒の場合、
そういう、ヨイ拍子抜けに、よく遭遇します。
なんだぁー、ぜんっぜん大丈夫だったじゃん~、と思えたときにゃぁ、
気持ちもウソのように晴れ上がっちまったりして、楽~になって、
舞い上がる、舞い上がる。
反動ってやつですね。 (^o^;)ゞ
どん底想定のさなかが、一番どん底ってことなのか、
ということはね、ふむふむ。
ってことはですよ、どん底想定モードに入ってきたら、
夜明けは近い!
ってこと、、、ってことですよね。(←この辺りの表現が石橋系 (^o^;) )
よし、わかった。
独り納得、独り安堵。(笑)
いやいや、ちょいとばかりですけど、
どん底との付き合い方が分かったのは、ウレシイですよね~、
病いの巧妙だな。
あ、もう具合はよくなってきてますので、すみません、
日記の間隔もあいてしまってご心配をおかけしましたね、
本当に、ありがとうございました。
去年の夏は、個人主義について考えてたんですけど、
それがひとつ深まったみたいで、今年は仏教にハマってるんですよ。
といっても、もっぱら読書レベルでの話で、
実践は、とてもとても、、、この煩悩満艦飾の人間には無理です。(^o^)ゞ
ウチは曹洞宗なんですが、じゃあ果たして禅ってどういうものか、
誰が開いた考え方なのか、てかお釈迦さまってどゆ人だったのさ?
なーんにもわかってなかった、これってもったいなくね?
なんて、若モノ言葉で鼓舞された自分に出会いまして。(笑)
いや、同じ禅系の臨済宗のお坊さまにして、芥川賞作家でもおられる、
玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんの『ベラボーな生活』というご著書が、
とてつもなく面白かったので、それがキッカケになったんですけどね。
個人というものを考えはじめると、どうしても他者とのことに行き着くわけで。
思うに、去年あたりから、見かけの問題などを掘り下げているのも、
その辺りのことを、無意識ながら感じていたからかもしれません。
自己充足と他者承認の問題というかね。
さすがにこの世界には、その辺りの答えが、いっぱい、
用意されているわけですよね。
今のところ、玄侑さんと瀬戸内寂聴さんを軸に読んでますが、
お二方とも、やさしくわかりやすい語りかけで書いてくださっているので、
すーっと、水のように、古来の思想が沁みてきます。
日々のあれこれを、ほぼ自力で解決しなければならない現代人には、
仏教を知ることはお勧めできますねぇ。
あ、蛇足ながらのお断りですが、
信者になりなはれ、とかってことではないですからね。
人に強要するものではない最たるジャンルですし、丸諒も無信仰者、
学問として追っているだけなんで、これは気楽な随想として読んでください。
それがね、今、触れてみている中で、あー、と思ったことがあって。
幸せになりたい、って言うでしょ、みんな、
目標は幸せになることです、って、普通に、ごくささやかな望みとして。
これ、欲なんですってよ、仏教では。
なんと、幸福になりたいと思うほど、不幸になるんですって。
って聞くと、ツボかなんか売られそうなインチキ宗教の手口みたいだけど(笑)、
そういうことではなく、
幸福かどうかは、その人の心持ち次第で決まるものだから、だそうで。
恐れとおんなじかもしれないんですけど、幸福も、イメージでしかないんですって。
そして、「目標」とは、欲なんですって。(@o@)/
実態のないものを欲しい欲しいと思っても、つかめるわけないですよねぇ、
たしかに。
たいがい、幸せっていうのは、自分の外側の充実のことを言ってるらしく。
素敵な恋人をみつけて結婚して子どもを生んでいい家に住みたい、
これ全部かなったら、嗚呼しあわせ…
では終わらず、
亭主はハゲて自分は肥えて、子どもはバカだし家はボロだし、となったら、
増毛させなきゃエステいかなきゃ、いい塾に通わせて家はリフォームして、
ってお金がたりないっ、ひとつも実現できないっ、こんな生活イヤーっ、
もっと幸せになりたいーっ、と。
幸福欲求のデフレスパイラルってやつですか、人は簡単にこれに陥るそうで、
しかも、この本当の恐ろしさは、キリがないこと。
「目標」って、達成したら上方修正しちゃうものだから。
もっともっと、上へ上へ、、、
いつまでたっても欲求不満ってことですよね、これはかなり、不幸でしょう。
追いかけても追いかけても、絶対につかめないまぼろし、蜃気楼、
それが、「求ム:幸福」というものの正体なのだそうです。
もしかしたら、拒食症とかもこの辺に関係してるかもしれませんけどね。
かといって、なんだか昨今流行り加減の、
身の程を知れ、身の丈でつましく生きろ、ってな、
みみっちいことを言ってるわけでもないんですね。
仏教的に目指すべき理想形は、楽、なんですって。
ハゲだわデブだわバカだわボロだわ(すごい言い様だなぁ (^o^;) )、
いや、ほんっとそうよね~、あっはっはっは、
って笑ってられるのが、いちばん美しく、いちばん素敵な在り様なのだそうです。
だから、仏教世界の最上階は、極楽。
天国じゃないんですよね、楽の極み、なんです。
楽っていうのは、自分の内面が充実している状態のことで、
外側の豊かさ乏しさは関係ない。
内面的な幸福がほしいっていうのは、実は、楽になりたいってことなんですって。
お風呂につかって、それこそ「はぁ~あ、極楽、極楽」とか言う、ね、
あの間は、満たされきってるでしょう?
ああいうシンプルな状態、気持ちいい~、ってだけの状態が、純粋楽。(笑)
どこにでも転がってますよねぇ、その気になれば。。。
やっぱり、快感を追求することって、悪いことじゃないんですね、
なんかすっかり自己チューなイメージになっちゃってますけど。
もちろん、いわゆる慈悲ってやつですか、他者を思いやる気持ちが、
大前提なわけですけどね、仏教なんで、さすがに。
でも、単純なことですよねぇ、考えてみれば、
他人にやさしく、自分にもやさしく、ってだけなんだもんな。
ああーそうかぁ……人にやさしく自分に厳しく、は、
儒教的な考え方なんだな、そして儒教は、管理する者のための思想なんだ、
わかってきた、丸諒は好かん、これは。(笑)
そうして、このところの丸諒の心持ち、
目標を設定してそこに向かって努力する、って、どうも違う、何かおかしい……
と思うようになった、あれは仏教的には叶ったことだったのだ。
ああ~、よかった、間違いじゃなかった、すっごい安心したー。(笑)
だって子どもの頃から、
まったくもうあんたは、楽な方へ楽な方へいって!
って怒られてきたから、楽することに罪悪感を持ってきてたんでねぇ。
それに、目標設定って、イコール向上心だと思ってきたから、
目標を持たない生き方をするのって、じゃ、邪道?という不安もあったし。
たしかに、あんまり若い内から楽な方ばかりにいくのはいけないね。
というか、もったいないよね。
エネルギーが充満しているときは、いっぱい叩かれた方がいいと思う。
鉄は熱いうちに叩け、ってね。
でも、よりよき人間になりたい、っていう本当の向上心には、
欲は絡まないんだな。
修行に近いあり方というか。
修行ってごく個人的なものだから、
見栄やプライドだけで続けられるものじゃないでしょう、
むしろそういうものを捨てていくことなわけで、欲とは違う質のものですよね。
だから、純粋向上心は、生涯持ち続けた方がいい。
たぶんその方が人生楽しくなると思うし。
でも、ある程度になったら、楽も、追った方がいい。
たぶんその方が、自分のため、人のため、人類のためになると思う。(笑)
苦しいことは、日々やってくるわけだけど、
苦しみを楽しむ、というような感じがつかめれば、それは楽にいれてる、
ってことかなぁと。
不幸のどん底にいても、楽にいれてる人って、素敵だ。
逆境に負けない、って、頑張ることじゃないんですね、
無邪気でいることなんですね。
やってきた鬼に、鬼となって対抗しても戦争にしかならないけど、
子どものように、どこまでも無邪気でいたら、鬼は力を失うですよね、きっと。
それは、相手を楽にするってことかもしれない。
・・・このあいだ、大変な状況で失意にある人に、
仁王立ちして迎え撃ってくれ、と言ってしまったのだけど、ごめんなさい!
間違いました。
楽にしてください。
お風呂に入ってでも、お酒のんででも、美味しいもの食べてでも、
なんでもいいから、気持ちよくいてください。
リラックスするのって、罪じゃない。
こんな大変なさなかに、自分一人安楽を求めるなんて人でなし、
そんな風に思うこと、全然ない。
楽な人のそばにいると、自分も楽になりますよね、
だから、、、自分の楽は、人を楽にさせてあげられる、ってことだから。
いっしょに苦しむことって、もしかしたら、自己満足の範疇を越えられないのかも、
・・・かも、しれない。
とても、危なげで語弊の多い言葉なんだけど、、、そんな気がしてきました。
自分が楽にいれば、
その方が遥かに大きなものが生み出されるんじゃないですかね。。。
ああ、、、もしかしたら、これが慈悲ってことなのかなぁ。
それやったら非常識でしょ、とか、そんな自分レベルのところではなく、
もっと大きな、大きすぎて見えないような、愛情の持ち方、、、なのかなぁ。
幸福は、なるものではなくて、いるものらしいですよ。
幸せになる、じゃなくて、幸せにいる。
幸せにしている、ってことは、楽でいるってことなんです。
と。
なれば・・・楽、追求しましょうよ!
少しでも楽な方に行きましょうヨ!
解禁ですよ、楽。(笑)
そう聞けば、楽になってきたでしょお?
お釈迦様は、この世の中から苦しみをとりのぞきたかったわけで、
みんなで楽に生きようなー、って、それだけを目指してたわけで。
単純な方へ、単純な方へ。
ね。。。
なんと大きな光でしょう。
やはり、侮れませんね、仏教。
だってなんか、生きる力が湧いてきた。
ってアンタも、ほんっと単純だよ。(笑)
でも、ってことは、いいトコいけてるんですよ。
ネっ-☆
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by rosegardenbel
| 2010-06-23 00:00
| ラ・ヴィータ・ローザ